Dear Friends

DF 45 ダーウィン、ドーキンズ、 妄想、そしておまけに無限

2007年4月

親愛なる友よ、

この手紙は2月にポルトガルで休暇中に書き始めたのだが、「まあまあ面白い」カテゴリーに入りそうなメモがいくつか書けたものの、何となくためらいがあってそれ以上進まなかった。新鮮な空気や、人っ子一人いないアルガーヴの海辺での毎日の(しょっちゅう黙想にひたりながらの)散歩のせいだろうか? それとも僕にとっての顕現 [訳注: キリスト教での突然の悟り、開眼] だったのだろうか?

遅くなったのも、そして突然閃いたのも、原理主義科学者リチャード・ドーキンズ教授(以下D)、ダーウィン派の旗を掲げてすべての宗教に反対する彼の運動のおかげだ。「旗を掲げて」だって? いやそんなもんじゃない。剣を抜き、導火線に火を点け、杯に毒を盛って述べるその学説は実に信念に満ちたもので、これほど賢い人物の論理より他の説を信じる勇気のある人間がいるなんて、ほとんど理解不可能な気にさせられる程だ。

知性を重視した自然淘汰(先週までは「創造論」という時代遅れの名称で知られていた)にどんな論理的反論ができるというのだろう? 反論する人は多いものの、Dはこの The God Delusion(神という妄想)という題名の新著の中で、それを一つ残さずズバッ、ズバッと斬っていく。

だから僕は反論なんて、そんな無駄な努力はしないことにする。Dは明らかに重要なポイントを忘れているからだ。

ある分野の知識もしくは研究の理論システム(もしくは原理)には論理が一番適しているとしたら、論理学者はその場合自分の論文を展開する前にまず全ての材料をテーブルに乗せて見せるのが当然だろう。ところがDはあらゆるメジャーな宗教における神と言う概念と戦うにあたり、自らの目的とする結果に達するために、まずその武器を慎重に選ぶ。そのせいで彼の兵器庫には足りない物がずいぶんたくさんある。科学という妄想に狂喜するあまり、信念および愛というものの真髄について問いかけることをまったく忘れているのだ。それ自体、彼が心から愛し、信じている科学をも支持する点であるのにだ。いったい彼は何故、この独断的な論争に人間の精神そのものを持ち込もうとしなかったのかが気になるところだ。

Dは単に宗教に対する科学の優越性を示したいだけで、前者に対してはその身体のあちこちを少しずつ削ぎ落として徐々に殺していく残酷な刑を与えながら、その一方で遠くばかりを見ていて自分のすぐ周りにある真実がまったく見えていない。いくら必死に追っ払っても去っていってくれないハチの群れみたいな真実がこんな近くにあって、さぞかしチクチクと痛いだろうに。

「人間の精神」が存在するのはまぎれもない事実だと、僕は分かっている。だって僕も持ってるからね(もちろんDもだ。)この論争の上ではそれを「神」と呼んでもいいのではないか。

それでちょっとすまないけど、Dの大説教に抜けている点を、彼自身の論理スタイルで述べて行きたい。

進化過程に関するチャールズ・ダーウィンの説明はとりあえずまったく道理に合っているとしよう。それではさて、リチャード・ドーキンズのミームの世界ではどんなことになっているのだろうか? Dいわくミーム(memes) とは物事の「もう一つの側面」を定義するもので、もう一つの側面とは物理的自然淘汰(もしくは強者生存説)によって簡単に説明できない諸々の事項のことだそうだ。そう、母なる自然とは弱肉強食の世界なのだ。

Dはまるで巡回説教者のような自信を持って神という存在を証明できるだけの証拠はないと断言した上で、それでも信じる者はバカだ!と軽蔑的に言い放つ。

リチャード・ドーキンズ教授はまた Flatland(これもまた僕にとってのひらめきだった)について言及するが、啓発されていない者が持つ世界のイメージとして例証するだけで、アボットが見せてくれた、素晴らしく刺激的な世界を紹介する機会をすっかり逃してしまっている。

エドウィン・アボット・アボット(というのがフルネームだ)は良い教師だった。1884年の著書 Flatland は、我々には理解できない多次元の物体(もしくは概念)があり、そのため我々は必ずしもいつも物事の真の姿をそのまま見ている訳ではないと説明してくれた。フラットランド(2次元世界)で球体(実際に感知できる円と、聖なるレベルの円の組み合わせ)の実態を認知するには、遠近感が掴めるまで、その物体をあれこれ動かしてみないといけない。僕に言わせたら現在の宗教も科学もあれこれ動かしてみる必要があるよ。

ドーキンズは宗教の過激派を批判するのにやたら時間をかけている。世界創造からたった6000年しか経っていないと信じるキリスト教信者を批判するためだけに、証拠立てはしっかりしている(が、まったく不要な)長い文節を費やしている。それに対して、ビッグバング以前には何も存在しなかったという説を固守する原理主義科学者もしくは理論物理学者たち。その対照物こそあぶくなのではないか? どちらもちょっと信じ難い説だし、また僕の無限説にまったく矛盾するものだ。

僕が8歳の頃のある日、学校で無限という言葉を聞いた。はっきりと定義され、全ての物が始まりと終わりを持つ世界に住む僕にとって、こんな抽象的な概念を把握するのはとても困難なことだったが、「無限」というこの難解な言葉には大変興味をそそられた。そこで夏のある夜、寝床の中でじっくり考えてみることにした。僕の部屋は壁と天井と床という境目によって限られているが、じゃあ窓とドアは? それが出発点だった。僕は窓から飛び出し、いつも窓ガラスを外からコンコン叩いてる鬼たちがビックリするのを横目に道へ。道には終わりがあったけれど、それは他の道の始まりでもあり、どんな道も必ずどこかに繋がっていた。袋小路を除いては。

そうか、ここは島国だったな。イングランドは海岸で終わるのだと当時の僕は思っていた。でもじゃあ海の向こうには何があるのか? 分かった、僕たちは惑星の上で暮らしてる、ってことは永遠にこの先がある訳じゃないと認めよう。でもちょっと上を向いてみたらどうだろう。それとも下を? いや、ただ外に目を向ければ、僕たちが駆け回っている銀河系が見える。そしてその先にはまだ発見されていない宇宙がある。そこで僕はお馴染みの材料を色々拾って来て、宇宙の周りに(まだ全然知られてない部分よりもっとずっと先まで)レンガの壁を築き、ほら、どんな物だって限界はあるんだ、無限なんて観念を思いついた奴は単なる無責任なロマンチストじゃないかと納得し、安心して眠りにつくことができた。

冷や汗ビッショリでガバッと起き上がったのは、寝込んでからそんなに時間が経っていない頃だっただろう。レンガの壁の向こうには何があるのか? 僕の宇宙の壁の外側にはいったい何が? さらにレンガの壁だ! もっともっとレンガだ! 何億何兆ものレンガだ!!!!???

全ての物を一緒にまとめようと試みたのはそれが最後で、以来無限に降参することにした。

無限(I) = 宇宙(U) (すなわち我々が知るところの全ての物) x アボットの球体(A) (我々は想像することができないものの、少なくともそれについて考えることができる人もいる、物理的および形而上的意味での「その他の次元」)だとして、

I = (U x A)という方程式は科学的にも神に対する信仰の上でも多少いい加減なものかもしれないが、ここではその意味を成すだろう。

理性的に考える者にとって、いわゆる一般の宗教は余りにも明らかな矛盾に満ちており、信者にとってのその信仰の必要性や利点に対しては距離をとった態度を取らざるを得ないのは分かる。また大手宗教をしっかり分析してみるのは楽しい上に、それは必要なことだというDの意見には僕も賛成だ。だがドーキンズという悪魔が放つ、ピタゴラス山からの聖雷によって自分の信仰の基礎を壊されてしまった哀れなる魂たちはこの後どうなるのか? 塔は少しずつ傾斜し、いつかはその重みに耐えきれず崩壊するだろう。Dの攻撃に対する自己防衛の手段として、大手宗教もこれからは進歩派の意見にもしっかり対処し、信者の信仰心を疑うことも減り、我々の魂にこれよりもっと健全な糧を与えてくれるかもしれない。ダーウィン派の言葉を借りて言えば「進化するか死すかのどちらか」、または「天国は袋小路で、極楽は壁に囲まれた庭園だという可能性もあり」だ。

科学と怪しい論理を武器に、ドーキンズは過激派宗教に対し猛烈な攻撃を仕掛ける。そのあまりの激しさに、彼とその標的の間にかかる「信仰」という名の織物はあまりにも強い力で引っ張られ、薄くなった部分を通して裏側からの光が見えるほど、つまり弱点が表面化しているほどだ。

神がいつこの宇宙を創造したのか、それは人間の計り知ることなのか、また科学的観点から見るといつ頃ということになるのかは、その人それぞれの意見によって違うだろう。神学者や各宗教信者の間でもその意見は異なるし、宗教によってそれぞれまた違う見方をしているし、真実とは光と同じぐらい歪んだものだから、(いつものように)もっと深く探求してみたくなる。

僕の言いたいことで、これまでに誰かが言ったのと違うことはいったいあるのか?

たぶんないだろうけど、僕にとっては「バランス」というものが大切なんだ。

もちろん僕は科学者じゃない。量子論という乱雑極まる実験室では僕だって他のみんなと同じぐらい意見を述べる資格があるだろうけど。ここから先に進む前に(なるべく短くするよ)、まず僕の略歴を見て、どういう観点から話す資格があるのか判断してみてくれ。神VSドーキンズ、どちらが優れているか争う場面を観戦するにあたり、ちょっと離れているから全体がよく見えて、どちらの味方もしなくてすむ場所というのを僕自身が見つけたのも、この略歴を実際に書いてみて、自分の人生におけるちょっと変わったバランスという物を発見して以来のことだ。

僕が育ったのはロンドン。北アイルランド「問題」が悪化している当時だったからキリスト教の2宗派がお互いを殺し合っているというのは(それが正しいとは決して思わなかったけれど) すっかり聞き慣れていた。僕自身の言葉ではGodswallop [注1] と呼んでいたものだ。

僕の父はグラスゴーのゴーヴァン地区出身で、政治的には左より。勤務先のハウンスローの工場では組合の代表役を務めていた。母は19世紀の価値観がまだ残る保守的な家庭の出身で、多少右寄りの学校教師。どちらもその生まれ育った環境が生み出した典型的な結果だが、僕にとっては2人とも愛する両親。たまに政治的な話題になると、結果はいつもお決まりだった。両者とも自分の意見が正しいと認められない不満感、そして怒りを抑える中、家庭内には寒い空気が流れる。2人とも大人だから、とりあえずここは引き分けにしましょうと、お互い黙るものの、また何かのきっかけで振り出しに戻る。

当時のイギリスでは、敵対するイデオロギーが現在よりもっとハッキリ分かれていたから、論争に熱が入るのもよく理解できた。それぞれ昔からの慣習で信じこんでいること(そのルーツ自体はとっくに忘れられかけているのに)をめぐって両親が 争うのを見るのは子供の僕にとっては辛かったし、2人とも何でも同じ意見でいてくれればいいのにと思った。とは言え、2人がツバを飛ばしながら論争する様子にはすごく興味を惹かれ、いつもしっかり聞き耳を立てたが、どちらも負けずに言い合っていて勝負はなし。この「両者が同等の立場」ということを確立することこそ論議の目的だったのだと後年になってから気づき、じゃあ僕は見当違いなことを考えていたんだな...いやそうだろうか? これも我々人間がお互い近づけるようにと神が企んだのかもしれないし、それとも進化のプロセスだったのかも? ここで選べるオプションは宗教か科学のみで、両方を選択することは許されなかった。この2つを絡み合わせる、螺旋状のプロセスは存在せず、ドーキンズのミームは(この時点ではまだ)遺伝子のような動きは見せていなかった。

当時暮らしていたのは公営住宅。労働者階級および中産階級の下層に属する人々(単に「貧しい」と呼ぶよりも、こういう呼び方の方がずっと威厳があり、共同体感覚も生まれる)のために、地方自治体が援助して安く借りられる住宅だ。だがうちの母はいろいろやりくりして僕の学費を工面してくれ、ちゃんとした教育を受けて、ちゃんと物事の区別もつくように学びなさいと、私立のハウンスロー・カレッジに送ってくれた。この異例のシチュエーションによって、僕は大いなる苦難を受けることになる。公団住宅の内で僕だけが、明るい青の縞が入った紺色のブレザー(宇宙からでも一目で分かっただろう)を着て、そして同じ柄のつばの長い帽子をかぶって、みんなとは違う学校に徒歩で通う訳だが、そんな「一人だけ違う奴」が毎日登下校の際にいじめの標的となったのは言うまでもないだろう。また学校ではその逆に、「貧民キャンプ」に住んでるのは学校中で僕一人だったから、いつも殴られ、制服はボロボロ、鼻も血だらけ(いつも自分の血だけじゃなかったけど。その内に喧嘩のコツも学んだから。)

思春期には、善き羊飼いの教会(Church of The Good Shepherd)で堅信のためのクラスに通い、スタッブス神父の教えを受けた。英国国教会と英国カトリック教会のミックスを説く、実にカリスマ性のある人物だった。ミサの最中には線香を振ったり、みんなと一緒になっての集団の恍惚というものも、ここで初めて体験した。余りにも魂が高揚して、教会から家まで文字通り飛んで帰った日曜日もあったという記憶は、今でも本物だと信じている。

しかし僕の心が「処女懐胎」その他の奇跡の概念(もしくはその概念の無さ)と葛藤する日が来たのは、それから間もなくのことだった。「信じなさい」と神父様は言うけれど、それは信仰を続けるならば思考と魂を分けて、ただ盲目的に信じなさいと言われているようなものだった。

その後、「ジーザス・クライスト・スーパースター」でイエス・キリスト役を歌い、「エヴォリューション」ではチャールズ・ダーウィン役を担当した。

という訳で、僕はちょっと興味のある物なら何でも噛み付く前によーく裏表をみてきたってことが言いたかった次第だ。

さて、そして...

スティーヴン・ホーキングはビッグバング以前には何もなかったという謎めいた発言をした。僕たちの宇宙の中でのことを言っているのだろうし、それなら反論できない。だがこれまで50年以上「無限」という骨にむしゃぶりついてきた僕にとって、この発言は驚くべきものだったのは言うまでもないだろう。「ビッグバング以前には何もなかった」というと同時に「理論物理学者の言うことをそのまま受け止める必要はない」と彼は言う。でも無限というものを理解するには、どこかで始まりを見つけないといけないんじゃないのか?

Dはその著書の中で、マーク・トウェインは「私という者が、生まれる何億年も前から存在していた訳はない」と述べていると、その言葉を言い換えた上で紹介している。つまりトウェインはもしも彼に魂というものがあったとして、それは彼の肉体と共に生まれ、死ぬのだと言っているようにとれる。

そうだとしたら、彼の「人生」はこの人類にとってどんな影響をもたらしたのだろうか? かなりの影響だと思うよ、だってその言葉がここまで届いているんだから。いや、これは彼の言葉なのか?

これは本当に彼の言葉、彼だけの言葉なのか? それともこれは僕の言葉なのか?

先祖の存在を感じることは誰にでもあるだろう。トウェインがその生前も死後も多くの魂に影響を与えたことは承知の通りだし、彼の魂はそうして生き続ける(本人がそれで不満なのかどうかについての声明は記録に残っていない。)だがその彼もたまたま存在した訳ではなく、その生と共に過去の遺物を引き続いたはずだ。それが家族からの直接的な遺伝(生まれもっての才能など)だったのか、間接的な影響(生まれ育った環境によるもの)だったのか、それともその両者だったのかは、また別の興味深い疑問だ。

僕の友人マーティンは、僕の腕の中で息を引き取る際、「じゃあまた今度会う時までな」という最期の言葉を残していった。宗教なんて信じてない奴だったし、一生あまり考えたこともなかっただろう。教会には(周りの人がうるさいから)行くしかない時だけ渋々行ってたマーティンも、自分の魂はこの世から先のどこかへ行くんだと感じたらしい。でもじゃあどこから来たんだろう? と考えたことはなかったと思うけれど。

今この生の後にまた来世があるなんてことは、前世があるという前提なしでは信じ難い。空の上でも地の下でもいいけど(Wordography No. 4 "No Laughing in Heaven" を参照のこと)、天国・極楽に送ってくれたり、永遠の天罰を下してくれる宗教がお望みのあなた、無限(もしくは進化、決して創造説ではありません)の「法則」によると、あなたの前世できっと何か、次はちょっとの間(一般的に人生70年、詳細は時代および地方によって異なる)洋服を着て暮らすための準備となるような出来事があったに違いありませんよ。

20世紀にさしかかるとユークリッドの並行線が脱線したように、僕の無限も新たなる現実の入り口に到着するやいなや、終わり(少なくとも混乱による一時停止)を遂げるのは明らかだ。

さて、これのどこが神(それぞれの宗教の)と関係あるのかって? 僕のパパはお前のパパよりでっかくて偉いんだぜ!!!

僕の神様、それとも君の神様、どっちのバージョンの話をすればいいのかい? で、それって例えばキリスト教、それともイスラム教の神様? カトリック、それともプロテスタント? スンニ派、それともシーア派? もしかしたら神とはダーウィンの説に則った存在なのかもしれない。まず最初は信念の生存のために苦闘し、それから誰が一番優れているかの争いでまた一苦労。

そしてその「優越性」こそ、Dの理論に欠けている要素のキーワードだ。これが抜けているから彼の説は論理的に成り立たない。ここで僕がしているのは、「何よりも優れた神」対「何よりも優れた科学」を代表する両過激派運動家たち、その戦いの全体像を観察することで、見たところ和解できそうもない差異の部分に気をとられるよりも、戦闘員たちのちょうど間に位置するゾーン、全く立ち入り禁止エリアの豊穣な土地に目を向けようということだ。ということで! 科学(遺伝)と神(ミーム)はお互い深くからみあった関係だと僕は思う。ミーム(自分勝手なミームの連中)とはドーキンズにとっての体外遺伝子であり、彼は人間の精神にも進化論を応用させようとするが、途中で挫折してしまう。と いうのも一体その原点はどこにあるのか、見つけられないからだ。化石化した魂なんてものは発見されてないからね。ちっちっ、そんな単純なことじゃないんですよ、教授。

科学の世界で人間の魂についてあまり語られることがないのは、みんなそれが当然あるものだと思っているからだ。ところがこいつがなかなか捕まえどころのない、タチの悪い奴で、脳外科や心臓手術の専門家でもオペ中に魂を発見したなんて人は1人もいない。だが呪術医なら誰でも見たことがあるはずだ。部族の頭首たちが政治に忙しい間、我々の魂を癒すのは呪術医たちの役目と決まって以来、宗教は我々の生活の一部としてずっと存在してきた。

多くの宗教はとても古く、よって現代の日常生活にあまり関連性を持たないという問題点がある。大手宗教は我々に脅威と希望(服用量はまちまち)、罪の意識とそれに対する救済を提供する。ドーキンズの言葉によるとそれも全て、その存在の証拠すらない神のために

証拠がないって? いったいどこを見てるんだ? たぶん自分のすぐ下を見忘れてるんだろう。宇宙が膨張している事実を説明するのに必要な方程式に欠けている莫大なエネルギーの謎を解く鍵になるだろうといって暗黒物質を探すのに必死になっている(何故かというと見当違いの場所ばかり探してるからだ)のと同じく、科学者の連中は自分の独断的判断で「存在しない」、もしくは「非科学的」と思える証拠は頑として拒否する。実際体験した人がいるからだって? そんなの話にもなりませんよ! ここでもまた連中は(特にドーキンズはその中でも際立って)全然間違った場所ばかり探し、間違った仮定の上で話を進めようとしているのが一番の問題だ。

数多くの宗教団体によって、そしてその中でも大手の団体が主張する、我々の神こそがこの宇宙を創り上げた創造主であるという説によって、Dの混乱はますます深まる。宇宙とは小さな平らなもので上には天国、下には地獄があった時代には、そういった教えも納得のいくものだっただろうが、その時代はもう過ぎた。確かにコロンブスの新大陸発見以来、時代に遅れをとらぬよう努力し、現実が変わり続ける中ちゃんと生き延びてきた宗教もあるが、それは信者たちのニーズがあったからだ。このニーズとは、一般的に要約すると... 帰属意識そして目的意識だ。

帰属意識と目的意識、それこそほとんどの人が求めるものじゃないのか?

やっかいなのは、精神の(ミームの)波動の中にある我々のこの螺旋状の存在、それを形成するひとつひとつの糸がどれも別々の、敵対位置にある標的(血の気の多い宗教と、血の気の多い科学)を狙って行動していることだ。そして両者が交わることは決してない。 [注2]

我々に帰属意識を与えてくれるという点では、宗教は役に立つものの、その代わりに我々は神の意志に沿って行動するよう要求される。科学の場合は逆に、目的意識が激励される一方で、そのスリルは簡単に興奮しがちなインテリ層にしか分からないという短所がある。

僕の両親の口論のように、この2者は和解不可能な位置にいるように見えるが、実はその余地は充分ある。てこの支点に重力がかかりすぎ、引き延ばされて薄くなった、その半透明の部分から覗いてみた限り、50%というのが僕の意見。それだけオーバーラップしている要素があるということだ。僕の感じるところでは(フィーリングは科学か? いや、球体だ)どちらの側もその感情の極端な部分を捨てさえすれば、オーバーラップする部分に焦点を当てることができ、そこから面白いものが、そして(少なくともとりあえずは)機能できそうな、新しい現実世界が生まれてくるだろう。そうやって圧力(もしくはその欠如)により、線だけの世界が単純な2次元世界のものとなり、新しい方向へと進んでいくのだ。

人間の考えとはどのようにして展開され発展されるのだろうか? 子供が「これは間違いない」と確信を持つ場合、その考えはいきなり急に思い付いた訳ではない。数年前、有名な(その名は忘れたが)某女性教育家が『子供たちから学びましょう』という発言をしていたが、これこそ最も訳の分からんポリティカル・コレクトネスの例だろう。あれを聞いて、じゃあチャールズ・ダーウィンはイギリスの遺産相続法をどう思うだろうかと考えざるを得なかった。IQが120以上の人の次世代相続者は、その内40%を相続税として放棄しなくてはいけないとか?

そうそう、これぞミームの仕業だ。先祖から引き続かれた「人生とは不公平なものだ」という意識に基づく社会構造を利用し、我々に何かを信じ込ませる工作行為だ! 盗人のような我らの大蔵大臣(もうじき首相)ゴードン・ブラウンは、国民の3分の1が国家の援助を受けて暮らすのはいいことだと考えているらしい。みんなが同じ大きさの家に住み、同じ家財道具を所有し(これは検査官がチェックできる)同じだけの財産を持ち、同じ学校で学び、永遠に労働党に投票するようになるまで、国家の収入は最後の1円まですべてまた国民にお返しするそうだ。そしてその時点(その日が来ないことを祈る)こそ停滞を意味する。現代社会に存在する隙間を埋めるパワフルでエネルギーに満ちた何かが生まれ、その結果... おやすみ、ゴードン。夢を見続けたければ、どうぞご勝手に。

僕の考えは両親のそれとは違うものだが、2人の口論の中で見られたバランスは、その後学校、教会、そして社会一般で吸収する様々な物事の価値を判断するために必要な、幅の広く応用の効く基盤を僕に与えてくれた。情報が入ってくると、これはどの部門へと振り分けながらデータベースに加え、全体像が見えてそれに対する自分の位置がハッキリすれば、別の場所に移して保存する。そうして保存したファイルも、新しい情報が入ってくる度にまた開いては更新するという作業をずっと続けてきたし、今でも続けている。

幼くして学んだこの学習曲線は僕の人生の旅における跳躍台であり、その後先祖からあらゆる形で享受した手引きがそれをますます高めてくれた。なんだか信じられない、変な話に聞こえるだろうか? まあメインストリームの底なし沼で身動きがとれない人には変に聞こえるだろうけど... それはしょうがないや。

そして20歳になった頃には、全てのことが理解できた。でも今じゃ当時よりもっとよく分かる。

家族の価値観に反抗し、まったく逆の道を歩んだ人も何人か知っているが、その多くは結局その殻から抜け出さぬまま、それぞれのミーム的課題を保守的な小さな歩みで定めて行くだけだ。

誰が一番優越かを競うにあたり、群れを支配する一番強いオス(もしくはそれに値するメス)である必要はない。自分が強くても、放蕩なダメ孫ができる可能性はあるからだ。よって生存のためには他者との協定を組むのが一番だ。自分の目的に役立ちそうな団体の首領がいれば、しばらくその下に所属すればいい。子孫の誰かが思想的血統に異議をもち、立ち向かうまで。

そうして伝統は受け継がれる。文字が生まれるまでは民間伝承がその媒体であり、勝者もしくは強者サイドの見解に偏りがちの我々の歴史教科書よりも正確なものだっただろう。我が家にある古いブリタニカ百科事典のアパルトヘイトの項目の、情報量の少なさといったら。こんな莫大なトピックに、これほど最低限にしか触れていないことに驚き、つい索引を引いてみたがここでも何も見つからない。一瞬呆然とした後、巻頭をチェックすると、答えはそこにあった。ブリタニカ百科事典の出版社のオフィスはロンドン、ニューヨーク、そしてケープタウンにあるんだ。納得!

僕が生まれてからこれまでイギリス政府は右に寄ったり左に寄ったり、その方向は何度も変わっててきたが、現在では主な2党のどちらもが中道路線(もしくは人民主義路線、大衆に受けそうな路線と言った方がいいかな)をとっている。そのため動きにはずみがなくなり、振り子の振動が遅くなるにつれて焦点が定まり難くなってきているのは誰の目にも明らかだ。これにはもちろん外部からの影響もある。これまでの自国政府の権限の多くがEUに吸収されてしまったことにより、イギリスはあらゆる面でこれまで以上に頑張らざるを得ない一方で、その反対方向に働くだけの社会構造の根本的重力をも取り上げられてしまったからだ。

科学の世界で揚げられる旗の多くは人間の習性を反映するもの(もしくは人間の習性にインスピレーションを受けたもの)だと僕には思える。例えばニュートンの第3法則は中東での事変1つに対し、超やりすぎの反動が必ず1つあると述べるのと比べて、ほんのちょっと(悪い意味での)正確度に欠けるだけだ。

いやご心配なく、艦隊はちゃんと決められた場所に配置されていますから。

ここ数年の出来事が証明したように、世界を舞台にしてお互いの優越性を競い合い続ける連中の内、モノポリー [注3] 派とチェス派との間には明白な違いがある。これ実にハマッた比喩だ。モノポリーもチェスも両方やったことのある人なら、この2つのゲームはそれぞれ全く違った思考態度を要するというのはご存知だろう。じゃあこの2種のゲームが我々の生活の中でどんな役を担当しているのか、そして偉大なる指導者たちの戦略をどんな形で手助けしているのだろうか? どちらのゲームも、そしてサンドハースト [訳注: イギリスの王立陸軍士官学校のある地] や ウェスト・ポイント[訳注: アメリカ合衆国陸軍士官学校のある地] で繰り広げられる戦争ゲームも、連中が発明したものでは決してない。

死とともに魂が天国へ(もしくは「あの世へ」)行き、それでお終いというのはとても想像できない。天国、あの世(もしくは地獄でもいいけど)に行くのは、70年前、当時は(科学者たちも含めて)みんなが「受胎を受けた生命の奇蹟」と呼んでいたけど、その当時同じ場所に到着した魂が、今度はちょっと進化したバージョンで戻って行き、先祖のみんなと再会し、そして今度は人間の魂という種の内の、ほんの小さな小枝の一部として進化していく子孫を導いていくのだ。

これは健全な自然淘汰の過程だ。我々の魂にも時々ちょっとした気分転換が必要で、我々が地球で過ごす時間は、この知性ある小さな物体が、肉体を必要としない段階まで進化するのに必要な、変性の期間だ。これこそ僕の無限論には便利な説だ。この整頓された箱、その外は刺激的な可能性でいっぱい、内側には敵同士がしばらく居着き、あれやらこれやら色々考えることのできる構造があるからだ。

バカバカしくて想像できないかもしれないが、ちょっと試してみてくれ。宗教が神という超知性的存在がこの宇宙を創造したのだという主張を捨てたら(それこそ人類にとっての大きな一歩だ)、されにこれもまたあり得ないだろうけれど、科学がその気難しさを忘れ、冒険の精神を発見し、ビッグバング以前に何かが存在したに違いないと認めたら... そうしたら我々みんなが実に幸せにそれぞれの生活を営めるだろう。神は我々の内部に存在するのだという認識、そして我々が生まれる前にも何かが存在したのだという確信を持つことにより、少なくとも我々の神への忠誠という、部族単位での生活における大きな困難は取り除かれるからだ。

神を信じなくても道徳的基準を持つことはできるが、それでも我々には神が必要だ。神を信じるのに宗教は必要ない。彼女(神が女性でどこが悪い?)はこのとても特別な惑星の主権を握るまで進化したのが、ほ乳類の中でもこんなに恥知らずで文句ばかりブーブーたれる種だってことに、ちょっとご機嫌斜めだ。人間たちが下らない物ばかり崇拝するだけじゃなく、それを地方ごとに自分たちの都合のいいように勝手に神格化する下らない癖があることはしっかり観察していることだろう。この習慣は特にローマ人がイギリスを侵略した際に目立った。現地でキリスト教を導入するにあたって、その聖なる祝日(holy-dates = holidays)を現地の異教の祝日と同じ日に設けることにより、原住民の不満を避けたのだ。

人間という種の精神的進化は、宗教を通してあらゆる地域で、それぞれの地方の文化に適応しながら違った形で自然に発展したが、その後は社会の中でのその地位を守ろうと激しく戦うことになる。通常はその部族の政治的リーダーと権力を分かち合うことによりお互いの力を強めるというパターンだが、ジハード、異教裁判、聖書に対する非難やコーランに対する暴行といった形で神の怒りを武器に、最高権威の座を握ることもあった。その存在の証拠は他のおとぎ話と一緒に、発達中の子供たちの頭の中に焼き付けられた、唯一の本当の神。すべてはその彼女の名の下に行われてきたことだ。この点についてはドーキンズの方が僕よりずっと上手く、しかも延々と述べてくれているが、そんな神様なら本人もきっとドーキンズと同じぐらい怒りに満ちた人に違いない。

彼女がマルチバース [注4] を創造したかどうかは問題じゃなく、ただ彼女の認識は人間の理解を超えたものであり、また人間の内部にはまだ未開発の部分があるのだいうことを知るだけで充分だ。我々の魂はそれぞれ各地の牧師、神父、ムッラ、ラビによって教育され抑制されてきた。どの地方でも、ここに行けば最高の権威を持つマイスターが演壇に立つのをライブで観られるという(本当に?)、神を信仰する目的専用に建てられた会場がある。

盲目的信仰は我々の魂を奴隷化している。それより共感の自然な延長として、テレパシーはどうだろうか? 間に入る女性(ちょっと表現が面倒臭くなってきたな。分かったよ、「間に入る奴」)を抜きさえすれば、実に可能だろう。独断的な教義に息を詰まらせ、礼拝堂に入場する際は脳ミソは入り口で取り外し、靴と一緒に預けるよりもね。

螺旋状に絡まり合うミームの間では、もちろんこんな希望と同時に、ある程度の恐怖が存在してそのバランスを取り合っている。我々の健康と幸福のためには欠かせない、相反の過程と呼んでもいいだろう。これがなければ俺の方が優れているぞと支配権を握るために戦う理由もなくなり、我々は目的も果たさぬまま、振り出しに戻るか、もしくはもっと最悪の状態になるだろう。

ということで、おそらくもう免れないだろう破滅のメッセージだ。ちょっと手を休めて、最初に呪術医たちが活動を始めた時代(ホモエレクトス、人類が最初に立って歩くようになった頃、そしてその後ホモサピエンスが登場した頃から、そんなに後じゃないだろうし、その数は数える程度だっただろう)以来これまでの間にこの地球で起こった色々なこと、それがどんな重要性を持つものなのか、考えてみてくれ。約2000年前キリストが生まれ、その当時の世界の人口は60万人だったと言われる。10億に達したのは19世紀後期になってからの話だ。その後100年ちょっとの間に世界の人口は60億を超え、2025年には80億に達すると予測されている。この急激な人口増加率が持続できるものでないことは、リチャード・ドーキンズ教授じゃなくても分かる。今から100年先の人口予測を読めば、恐怖で膝がガクガク震えるだろう。これまで人口を抑えてきた要素(飢饉、干ばつ、病気、戦争)が科学や神の力により今後はそれほどの脅威ではなくなり、共通の敵がいなくなってしまったら... そうしたら両者の保証する破壊が世界を襲い、もうこの地球を救う必要もなくなってしまう。人類というこの疫病が消えてしまえば、地球にとってはますます嬉しいことだろう。 これぞ運命というものだ。それが神の力によるものなのか、それとも科学のお陰なのかなんて聞く人も答える人もいなくなる。そして人間という種は大人になる前に絶滅してしまい、我々がこれから行くはずだった「あの世」は、我々の前世そして先祖たち(つまり我々にとっての神)から切り離され、宿命からも遠く引き離されてしまうのだ。

もちろん無限を信じるのなら、すべての全体には始まりも終わりもなく、ただ寝室とか人間1人の一生とかアボットの球体とかいった、個々の物事や出来事に始まりと終わりがあるだけだ。我々は絶えることなく心に湧き出る希望を抱いて生きて行ける。そんなの聞き古した言葉だよと言われるかもしれない。だが毎日の生活の中、一方で誤った仮定、また一方でガチガチの教理にしっかり固まった理性的議論という接着剤にだんだん足を取られていく内に、希望なんて少しずつ薄れていくものだ。もし両者とも間違っていたとして、我々に何ができるのか? いったいどうすれば生き延びられるのか? どうやら神はもうお終いにしたがっているようだ。「唯一の神」の名の下に、人間は殺し合いを止めようともしない。この点ではドーキンズは正しいが、アルヴィン・トフラーの Future Shock が刊行された時にみんなが言ったのと同じく、そんな誰にでも明らかなことを今さら言われてもなあ、だ。

人間の魂は、このありふれた存在から逃れるために、みんな揃って何かすることを与えられ、精神的に高揚させられる必要がある。これこそ(Dには大変しゃくに触るだろうが)隠喩的な意味での時が始まって以来ずっと宗教が栄えてきた理由で、いい気分、本当にいい気分にさせてくれるからだ。だが、論理的かつ答えることのできない質問を聖職者たちに尋ねる必要がどこにあるのだろうか。彼らはいつでもそんな質問に答えてくれるが、それは理性的な思考を無視し、盲目的な信仰を要求するものばかりだ。

比較的に攻撃的でない宗教がその勢力を失いつつあるからと言って、我々が精神性を失ってきている訳ではない。太古からの信仰に手を加え、現代に適応した形にできないかと探求する人が増えていることを見ればこれは明らかだ。あらゆる社会で共通の価値観や倫理観があることも忘れてはいけない。どのような面でも完璧な人間なんていなく、我々のこの弱さこそ我々を一つに結びつけてくれる可能性のあるものだ。神という存在をもっと進歩的かつ理性的な目で見ることさえできれば。

進化するか、絶滅するか。はい、宗教はちゃんとよく聞くように。科学はちょっと黙ってて。あんた達どちらも同じことを目指してるんだよ。

この広い宇宙の中のどこかに、我々と同じようにはかない生を送る生物を発見できる可能性は、もっと違う形で意思伝達ができるようになる可能性よりもっと低いと思うのは僕だけだろうか。その光が我々の目に届く何百万年も前に燃え尽きてしまった星を見ながら、光よりも遅い小さな船でこのささやかな銀河系から飛び出そうとしている人間たち。平らな宇宙の端から落ちてしまうのを怖がっていた時代もあったけど、今日現在もっと賢くなるべきじゃないのか。

光より速く飛ばない限り、どこにも達することはできないと言われるが、それには2つしか方法がない。

科学: 変化は開発されつつあるが、成功するまでの道のりはやっかいなものになるだろうし、スターゲイトを発見するか(もっとあり得そうな可能性として)アインシュタインは間違っていたと証明するかしない限り、開拓者たちも苦労するだろう。

宗教: この世の次は天国が魂を招いてくれてると信じる者が多いが、精神の歴史的背景というバランスなしではそんな運命も満足のいくものではないし、また現在の宗教の聖職者たちと永遠を分かち合いたくなんかないという人も多いだろう。だが我々の精神の旅は既に始まっている。ただ最高権威をめぐる闘争や、この地球で思春期をなんとか生き延びようと必死になっているお陰で、まだ焦点がはっきり定まっていないだけのことだ。

話はこれで終わってはいないけど、とりあえず。

帰属意識=神
目的意識=科学

我々にはどちらも必要だ。

Cheers

Ian Gillan

Copyright © Ian Gillan 2007

訳者注:
[1] Codswallop(ナンセンスの意)の「cod(タラ)」を「God(神)」に置き換えたもの。
[2] キップリングの詩 "The Ballad of East and West" (東と西の歌)に由来する英語の成句 "...and never the twain shall meet..." (この両者は決して出会うことはない)だが、ここではもちろん前述のマーク・トウェインにもかけている。
[3] 他プレイヤーと盤上の不動産を取引し、他の参加者から利用料を徴収して自らの資産を増やし、最終的に他のプレイヤーを全て破産させるのを目的とするボードゲーム。世界各国で愛好されており、それぞれの国バージョンにより不動産の名称も違う。
[4] 「ユニバース(ユニ(1つ)+バース(回転)=回転して一つになったもの)」に対しての「マルチ(たくさんの)バース」。

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